祇園祭後祭り
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京都の四季とCobaのお花と共に暮らす日常をお便りします♪
随分遅くなってしまいましたが・・・
祇園祭、「後祭(24日(木))」の山鉾の巡行の
ご報告です
今年(2014年)の祇園祭は今までと大きくかわりましたねぇ
約50年ぶりに「前祭(さきまつり)」と、
「後祭(あとまつり)」に分かれる形に戻ったことによって、
山鉾の巡行も「前祭(17日(木))」と
「後祭(24日(木))」の2度行われました
これは、千年以上にわたって継承されてきた「前祭」・「後祭」の習わしを、
後世に正しく伝えていく為の復活だといいます
(「後祭」は、元々は前祭の山鉾に続いて17日に巡行していたんですって)
そしてもう一つの大きなニュースとして
大船鉾の150年ぶりの巡行への復帰がありました
(大船鉾は、元治元年(1864年)の「蛤御門の変」により一部を残し焼失
平成24年に、御神面を入れた唐櫃(からひつ)による特別な形で、
山鉾巡行に復帰し、平成26年の今年、150年ぶりに巡行に復帰しました)
大船鉾は、「くじ取らず」で、
「後祭」の山鉾巡行の最後を行くきましたぁ
巡行のコ-スは、17日の「前祭」の反対で、
午前9時半に烏丸御池交差点から『橋弁慶山』を先頭に出発、
四条烏丸までの巡行でした
大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づいて
嘉吉元年(1441年)の建立とされています
(「康富記」の記述から、
応永29年(1422年)にはすでに存在したという説もあるとか)
いずれにしても「応仁の乱」以前からの古い歴史を持っています
大船鉾はその「応仁の乱(1467年)」には他の山鉾とともに焼失、
23年後の明応9年(1500年)に再興したといわれています
(しかし、その年の鬮(くじ)順の記録には出ていないので、
完全な復興は数年後かもしれないんですって)
その頃は人形だけを乗せた比較的簡素な「舟」でしたが、
江戸時代に入って、次第に装飾が加えられ、
囃子も加わって、『船鉾』と呼ばれるようになったといいます
「天明の大火(1788年)」で神功皇后の御神面を残して焼失、
文化元年(1804年)には以前にも増して、
豪華な鉾として再興されました
(現在残る懸装品や金幣はこの後に整えられたものです)
しかし、元治元年(1864年)の「禁門の変」により
木部など多くを焼失、以後は「休み鉾」となります
その後は御神体と懸装品を飾るだけの
「居祭り(いまつり)」を行ってきましたが、
平成7年(1995年)にはそれも休止し、
神事のみとなっていました
しかし、平成9年(1997年)には宵山の囃子が復活、
平成18年(2006年)には飾り席も復活して、
いよいよ巡行に向けて「鉾」の復興を目指すことになったんですって
何とも長い歴史があるんですねぇ~
「前祭」の『船鉾』が【出陣船鉾】と称されるのに対して、
【凱旋船鉾】といわれている大船鉾
神話の中で、戦いから凱旋(がいせん)した船を表しているんですよ
全長7・47メートル、高さ6・35メートルと巨大
存在自体に有難さを感じちゃいます
これはもう来年の祇園祭には、150年ぶりに復活した
大船鉾の迫力をじかに感じに行くしかないですねぇ~